1945年(昭和20年)8月9日には長崎に原子爆弾が投下されて
破壊された浦上天主堂(1946年1月7日撮影)
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キノコ雲
壊滅的な被害を受け、同じ9日にはソ連軍が満州国に侵攻する (ソ連対日参戦)など、鈴木内閣の和平工作の失敗が明白となりました。
牡丹江へ進撃するソ連軍
この8月9日深更から開かれた最高戦争指導会議および閣議の 御前会議は、ポツダム宣言を受諾して降伏するか、あくまでも 本土決戦を期して戦争を遂行するかで議論は紛糾していました。
鈴木首相は昭和天皇の聖断を仰ぎ、「国体護持」を条件として、 ポツダム宣言受諾に意見統一しました。
翌8月10日、内閣は、ポツダム宣言を受諾するにあたり、 「万世一系」の天皇を中心とする国家統治体制である「国体」を 維持するため、「天皇ノ国家統治ノ大権ヲ変更スルノ要求ヲ包含 シ居ラザルコトノ了解ノ下ニ受諾」すると付言して、連合国側に 申し入れました。
これに対し、連合国側は、天皇の権限は、連合国最高司令官の 制限の下に置かれ、日本の究極的な政治形態は、日本国民が、 自由に表明した意思に従い決定されると回答しました。
この回答を受けて、8月14日に再度の御前会議が開かれ、 再び鈴木首相が聖断を仰いで、最終的にポツダム宣言の 無留保受諾が決定されました。
天皇は終戦の詔書を発布し、即座に連合国側にその旨通告されました。
この詔書の中では「国体ヲ護持シ得」たとしています。
玉音盤(玉音放送で流された、天皇の肉声(玉音)を録音したレコード盤)。NHK放送博物館所蔵。
国民に対しては、翌8月15日正午から、ラジオ放送を通じて、 天皇自ら終戦の詔書を朗読する形で、ポツダム宣言の受諾が 伝えられました(玉音放送)。
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